Rona736の終日乾乾す

君子、終日乾乾し、夕べに惕若(てきじゃく)たり。厲(あや)うけれども咎(とが)なし。

論語・序文

冨山房『漢文大系』論語集説の序文から

史記世家にいっている。

孔子、名は丘、字は仲尼と言った。その先は宋の人である。父は叔梁紇《しゅくりょうこつ》といい,母は顏氏《がんし》という。

魯の襄公《じょうこう》二十二年、庚戌《こうじゅつ》の歲、十一月|庚子《こうし》に、孔子は魯の昌平郷《しょうへいきょう》の陬邑《すうゆう》という邑《ゆう》に生まれた。こどもとして戯《ざ》れて遊ぶのに、いつも俎豆《そとう》(祭器)を並べ、禮の容《かたち》を設けた。

成長すると、季氏の吏となり、物の量をはかった。司職吏《うしつかい》となり、畜《いきもの》(祭事の捧げもの)を蕃息させた。

周にゆき、禮を老子に問い、既にかえりて、弟子とともにますます進んだ。

昭公二十五年|甲申《こうしん》、孔子が年三十五歳のとき,昭公が齊におわれ、魯は乱れた。ここにおいて齊にゆき、高昭子の家臣となり、そこで景公にめどおりした。公は尼谿《じけい》の田に封じようとしたが、晏嬰《あんえい》がゆるさず、公は惑われた。孔子は遂にさり、魯にかえった。

定公元年|壬辰《じんしん》、孔子は年四十三歳であったとき、季氏が無理に僭称《せんしょう》し、その臣の陽虎は乱をおこして專政した。そこで孔子は仕えるのをやめ、退いて詩、書、禮、樂などの書物を修めたが、弟子はいよいよおおかった。

九年|庚子《こうし》、孔子は年五十一歳であった。公山不狃《こうざんふちゅう》が費で季氏にそむき、まねいたので、孔子はゆこうとしたが、結局行かなかった。定公は孔子を中都宰とし、一年たつと、四方は孔子を模範とするようになり、遂に司空となり、また大司寇となった。

十年|辛丑《しんちゅう》、定公をたすけて齊侯を夾谷《きょうこく》に会し、齊人が魯の侵地を帰すことがあった。

十二年|癸卯《きぼう》、仲由を季氏の宰とならせ、三都を陥落させ、その武装兵を収容した。孟氏は陥落や和平を許さず、これを囲んでも勝てなかった。

十四年|乙巳《いつび》、孔子は年五十六歳で、相の事を摂行し、少正の卯を誅殺し、国政を聞くことに与った。三月たって、魯の国は大いに治まった。齊人が女樂をおくってこれを阻み、季桓子は女楽(美人の女性の音楽隊)を受け入れた。郊祭において再び膰俎《はんそ》(ひもろぎ?祭礼などの肉のことか?)を大夫におこなわなかったので、孔子はさった。

衛にゆき、子路の妻の兄である顏濁鄒《がんだくすう》の家を主な宿とした。また陳にゆき、匡をとおりすぎたが、匡の人は孔子を陽虎とおもって孔子を拘束した。既に解放され、衛にかえり、蘧伯玉《せんはくぎょく》の家を主な宿とし、妃の南子と面会した。去りて宋へいった。司馬|桓魋《かんたい》が孔子を殺そうとした。そこでまた去り、陳へゆき、司城貞子の家を主な宿とした。居ること三歲にして衛にかえったが、靈公は孔子を用いることができなかった。晉の趙氏の家臣である佛肸《ふっきつ》が中牟でそむき、孔子をまねいたので、孔子は往こうとしたが、また果さなかった。まさに西へいって趙簡子にまみえようとしたが、河にいたってかえり、また蘧伯玉の家にやどった。靈公が戦争のことを問うたので、答えずに去り、また陳へいった。

季桓子がなくなったが、遺言して季康子にかならず孔子を召せとあり、その家臣はそれを止めたが、康子はすぐさま(孔子の弟子の)冉求を召した。孔子は蔡と葉とにいった。楚の昭王がまさに書社の地で孔子を封じようとしたが、令尹の子西が許さず、そこで止めた。また衛にかえったが、時に靈公はすでに亡くなっていた、衛君の輒は孔子を得て政治に当てようとした。しかし冉求が季氏の将となり、齊と戦って功があったため、康子が孔子を召し、そこで孔子は魯に帰った、実に哀公の十一年|丁巳《ていび》で、孔子は年六十八歳であった。

しかし魯ではついに孔子を用いることができず、孔子もまた出仕を求めなかったので、そこで書傳(書経)や禮記を叙述した。詩(詩経)を刪定し樂を正し、易経の彖、繫、象、說卦、文言の各伝を序でた。弟子はおそらく三千ほど、自身が六藝に通じる者が七十二人ほどであった。十四年|庚申《こうしん》、魯の西に狩して麟を獲たので、孔子は春秋をつくった。

明年|辛酉《しんゆう》、子路が衛に死した。十六年|壬戌《じんじゅつ》、四月|己丑《きちゅう》、孔子はなくなった、年七十三歳で、魯の城北の泗水のほとりに葬った。弟子はみな心喪三年に服して去ったが、ただ子貢のみ冢の上に廬をあみ、およそ六年喪に服した。

孔子は鯉、字は伯魚を生んだが、先になくなった。伯魚は伋、字は子思を生んだ、子思は中庸を作った。

何氏がいっている、「魯の論語(魯論)は二十篇ある。齊の論語(齊論)は別に問王、知道があり、すべてで二十二篇であり、その二十篇中の章句は、すこぶる魯論より多くなっている。古論(古い論語?)は孔氏の家の壁中から出て、堯曰の下章の子張問を一篇とし、兩子張の篇があって、すべてで二十一篇あり、篇次は齊・魯のそれぞれの論語と同じでないものがある。」

程子がおっしゃっている、「論語の書は、有子と曾子の門人の手でなった、だからその書は二子のみを子の称で呼んでいる。」

程子がおっしゃっている、「論語を読み、読み終わって全然、何も起こらない者がいる。読み終わった後、その中にいくつかの句を得て喜ぶ者がいる。読み終わったあと論語全体を好むことを知る者がいる。読み終わった後、ただ喜びに手が舞い足の躍ることに気がつかないほどの者がいる。」

程子がおっしゃっている、「今の人は書を読む機会がない。もし論語を読んで、まだ読まない時はこれはそのような人であり、読み終わった後もまた単にそのような人のままであれば、すなわちそれはまだ読んだことにはならない。」

程子がおっしゃっている、「頤(程子)は十七八から論語を読み、そのころからすでに文章の義《いみ》は暁っていた。だが論語を読むこといよいよ久しくなるにつれ、ただ意味がますます深く長くなることを覚えるだけである。」